2019年09月19日

軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜

軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜
大陸に「満洲国」があった頃、父は満洲国の日本人居留地の一員として、何不自由なく生活していた。祖父は駐屯地司令の任務で忙しく、家で食事をとって夜は馬賊・匪賊の夜襲に備えて駐屯地で仮眠、というのがほぼ日常化していた。
今でいえば小学校低学年の年代だった父は勉強よりもイタズラに余念がなく、先生からもよく怒られていたらしい。ある日帰宅すると、怒り心頭の姿で祖父が立っていた。試験の成績かイタズラか、身に覚えのあった父はこっぴどく叱られることを予想した。「そこに正座しろ!」怒号が響き、反射的に父は座り込んで姿勢を正した。やはり説教だ。「貴様、何をやっとるんだ!」祖父は烈火の如く怒りを露わにし、刀に手をかけた。「次やったら、その首をはね飛ばしてやる!」首筋に当てられた刃の輝きは、少年の背筋を凍らせるには十分過ぎた。もっとも、それで懲りたかどうかはわからないところだが…。
軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜
軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜
軍刀は陸軍の服装規則で定められた装具で、白兵戦用の武器というよりは身だしなみの一環、または指揮刀としての意味合いが強いものらしい。とはいえ刀は武人の証ということなのか、プレス等で大量生産された軍刀以外に、名刀や伝家の宝刀の拵を替えたりして軍刀として使っている例も多かったようだ。
軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜
現地人との友好関係を築き、比較的安定した環境を維持していたものの、日本人居留地が馬賊・匪賊に襲撃されるのは決して珍しいことではなく、駐屯している陸軍は対応に追われていた。当時の国際法の解釈では、襲撃は便衣兵のテロ・スパイ行為であり、逮捕し処刑するのは合法と見なされていた。そこで、処刑の際に使うのが…という訳で、祖父の軍刀は少なからず生き血を吸っていたのかもしれやい。
如何に名刀であっても、武装解除の際は手放さなければならない。日本の敗戦後、露助に命を狙われる恐れがあったため、父の家にあった武器は全て処分された。拳銃は父が兄弟と一緒に池に持って行き、投棄された。軍刀は畑に埋められた。
日本人が脱出した後は、現地人が残る。祖父は世話になった現地の使用人に「あなたには世話になった。あの刀はいい刀だから、後で掘り返して貰ってやってほしい」と言い残した。
祖父の軍刀はその後使用人の手に渡ったのか、そのまま畑で朽ちていったのか、今となってはわからない。
軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜
軍刀と地平線 〜実録 満洲国日記〜




タグ :雑談満洲


Posted by m14gbbshooter at 23:50│Comments(2)
この記事へのコメント
UC00です。
日本軍の軍刀っていうと、装備が旧式で貧弱というイメージを持つ人多いですが、そもそも軍刀って将校(軍属で持つ人もいたようですが)が持つものなんですよね。
白兵戦に全く使わなかった訳ではないでしょうけど、将校としての威厳、指揮、または士気の高揚という意味合いが強かったはずですね。
映画等の影響で、万歳突撃で指揮官が軍刀かざし、真っ先に撃たれるってイメージつきまくってるようですけど、本当に万歳突撃は最後の最後であって、戦闘初っぱなから万歳突撃するわけないんですけどね。
私の拙い話でした。
Posted by 悠一悠一 at 2019年09月20日 04:14
UC00先輩
お疲れ様ですm(_ _)m
軍刀は斬撃に適した設計で作られていたようですが、やはり一番の目的は指揮官の識別や指揮刀としての役割ですよね。戦闘中の写真を見ても、見通しの悪いボサの中や夜襲の時は役立ったのではないかと思います。将校は拳銃を自前で用意することになっていたので、武器は刀だけという訳でもないですよね^ ^;
先輩のおっしゃる通り、「突撃に進め」「突っ込め」の号令までは長い長い道のりがありますし、日本陸軍は万歳突撃しかしないというステレオタイプなイメージはちょっと偏見かなと思います。
余談ですが、敵前で師団規模の上陸作戦(水陸両用作戦)をこなせる軍隊として日本軍が当時最も先進的であり、米英がそれを研究していたという事実もあります。
Posted by m14gbbshooterm14gbbshooter at 2019年09月21日 08:18
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。